2011年
8月
15日
月
終戦記念日
本日は66回目の終戦記念日。
杉並区役所のロビーでは、
「原爆と人間展」が行われていた。
原爆の悲惨さを語り継ぐことは大切。
でも、それと同じレベルで戦争へと
導いた(導かれた?)日本国の総括も
して欲しいと思う。
まぁ、所詮は庶民というものは無力で
振り回されるだけ
なんだろうけどね……。
会場には、「焼き場の少年」のポスターが張られていた。
★写真はロビーで撮ったので、全体をちゃんと見たい人は画像検索してくださいね〜。
知ってる人もいるだろうけど、あらためて写真のことを書いておきます。
これは1945年の9月に長崎で写された写真。
米空爆調査団として日本を訪れていたジョー・オダネル氏が撮影したもの。
オダネル氏は1995年刊行の『トランクの中の日本』(小学館)で
つぎにように回想している。
「焼き場に十歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には二歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。その子はまるで眠っているようで見たところ体のどこにも火傷の跡は見当たらない。
少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、足元の燃えさかる火の上に乗せた。まもなく、脂の焼ける音がジュウと私の耳にも届く。炎は勢いよく燃え上がり、立ちつくす少年の顔を赤く染めた。気落ちしたかのように背が丸くなった少年はまたすぐに背筋を伸ばす。私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じつと前を見続けた。一度も焼かれる弟に目を落とすことはない。軍人も顔負けの見事な直立不動の姿勢で彼は弟を見送ったのだ。
私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った。急に彼は回れ右をすると、背筋をぴんと張り、まっすぐ前を見て歩み去った。一度もうしろを振り向かないまま。係員によると、少年の弟は夜の間に死んでしまったのだという。その日の夕方、家にもどってズボンをぬぐと、まるで妖気が立ち登るように、死臭があたりにただよった。今日一日見た人々のことを思うと胸が痛んだ。あの少年はどこへ行き、どうして生きていくのだろうか。
この少年が死んでしまった弟をつれて焼き場にやってきたとき、私は初めて軍隊の影響がこんな幼い子供にまで及んでいることを知った。アメリカの少年はとてもこんなことはできないだろう。直立不動の姿勢で、何の感情も見せず、涙も流さなかった。そばに行ってなぐさめてやりたいと思ったが、それもできなかった。もし私がそうすれば、彼の苦痛と悲しみを必死でこらえている力をくずしてしまうだろう。私はなす術もなく、立ちつくしていた。」
この少年は、「よっちゃん」という名前だったらしい。
まだ御存命だろうか。
「誇り」「覚悟」「責任感」など、この写真から感じることは、非常に多い。
「よっちゃん」ほどには無理だが、自分も背筋が伸びる思いだ。
で、なんで区役所に行ったかというと、
ちょっといろいろ相談にね。
2011年
8月
14日
日
飲みすぎたよ(苦笑)
昨日は少し飲みすぎた。
楽しいお酒だったしね☆
ちょっとお疲れモード。
まぁ、飲みすぎたっていっても、
それほどではないか。
若い時はとんでもない失敗を
繰り返したもんなぁ。。。
最期にヤバイ飲み方をしたのはいつだっけ。
多分、あの時かも……。
最期にヤバイ飲み方をしたのは10年以上前だったかな。
高円寺のブラックミュージック専門のクラブ「DOPE SOUL TRAXX」の
前身だったお店でやった誕生飲み会の時だと思う。
テキーラ飲みすぎで記憶を完全に無くしたんだよなぁ。
いまはやってないかもしれないけど、誕生月のお客さんが集まって、
みんなで激しくテキーラを飲むイベントが毎月行われていたのだ。
その日のビデオをもらったけど、いまだに怖くて観れない(苦笑)
それにしても全然お店に行ってないなぁ。
みんな元気かなぁ。
お店の人や常連のお客さんたちにも
『ハート〜』はいろいろお世話になったもんなぁ。
第9回の時には、お店まで『ハート〜』に出してもらったし。
ちょっと検索してみたら、DJのKAZクンがコンテストで優勝してたみたい。
『アレステッド・ディベロップメント』のスピーチ自らが審査しての
優勝だから、かなり価値があるじゃんね。KAZクン、おめでとうございます〜。
つーか、コンテストは5年前みたいだから、祝福遅すぎだよな。
昨日、これからの『ハート〜』再起動に関して、
作家さんから意見をうかがったんだけど、
とりあえず『ハート〜』がらみでお世話になった人たちのことを
ちゃんとリサーチしていかないとね。